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2022年7月11日(月)
ふるさとを想い 父母を偲ぶ
小生、昭和12年、上杉村払沢の山間の11戸の小さな集落の(現在上越市三和区払沢戸数6戸)農家の五人姉兄妹の二男として生を受ける。
両親は教育には、理解があり、当時は、高校へ進学する子弟が少ない時代だったが、私以外の姉兄妹は高校を卒業している。中学校を卒業の折に、母から名古屋に小僧に行けと・・・
私は、反抗はしたが、父母の苦労もわかっていた。
母は、「おまえは二男だからこの地にいてもおまえの耕す土地はないから親孝行するつもりで、1年遅く生まれたと思って、1年行ってどうしても自分に合わないと思ったら帰って来て、高校へ行けば良い」と。自分なりに心を決め、昭和27年3月30日の夜行列車で単身名古屋へ・・・・母は体格小さかったが、元気でよく働き、厳しい中にも、心根は優しく育んでくれた。どこからあんなパワーが、合わせて社交性も有って、そんな母が、昭和40年11月64才で逝ってしまった。私の人生で1番つらい痛恨の極みでした。
父は「モクモク」と働き朴訥と生きた人だった。長年、満州までも出稼ぎに行って終戦の1年前に帰郷するが、私が生まれた時も母から「男子が生まれる名前は」と満州に電報を送り、父からは「滿男に」との電報が届いたようだ。
私は父に叱られた記憶はほとんどない。ただ小学5年の時に、なんで叱られたか覚えてはいないが、夕方庭の大きな梅の木に縄でしばりつけられ、夜暗くなってからは、母が懇願してくれて縄を解かれた記憶が今でも鮮明に想い出されるが、父の愛だったと想う。その父も昭和47年6月に他界する。現在はふるさとに帰ってもその梅の木はないがその根っこから新しい木が芽吹いている。
何の親孝行もせずに父、母を見送ってしまったが。父、母が逝く前に私の人生の道筋が開けた事と、3人の子供にも恵まれた事の報告が出来たことが、せめてもの親孝行だったのではと、自分勝手に想っています。
父ちゃん、母ちゃん、ほんとうにありがとう。おかげさまで、今有る事に、朝夕、手を合わせ、ただただ感謝です。
名古屋へ出でて70年、その間多くの人々との出会いが有って先輩諸氏からは多くをご教授いただいて、その間、ふるさとの詩「うさぎ追いしかの山、こぶなつりしかの川」を幾度、くちずさんだ事か。お世話になった社会に何の恩返しも出来ませんが、地域のバス停歩道等の草取り清掃と、ふる里の実家から持ち帰った花桃の親樹から苗をつくり人知れずにあちこちに植樹し50年。300本ほど春にはそこかしこで紅色、白色、桃色の3色の花を咲かせてくれる事を願いながら。
私の命は尽きても、花桃は永々として春には花を咲かせてくれる事を願い想いながらまたくる春を楽しみにして・・・・。大坪滿男